理念

 願い・祈り・繋ぐ
○ あなたの願いは何ですか

あす 如何に ならむは知らず 今日の身の 今日するわざに わが命あり
                     (津田 左右吉)

 理想を掲げ、希望をもって生きることは、人として、当たり前のこと。まして、この身が遠い祖先からの命を受け継いでいるものだと思えば、日々の努力に何を惜しむことがあろうか。などと考えても、実際は、なかなかに思う様にはいかないで、何だかんだと愚痴っぽくなったりもするのですが、今生きているのは、まさに、この今であり、それが、「次」に続くのだということは確かです。
 「今」を疎かにしては具合が悪かろうと思いながら、何をどうしようかと考えます。よい考えが生まれて、よい方法を思いつくことは、それほどあることではありませんが、とにもかくにも、「今」をしっかりと見据え直すことは、よいことでしょう。
 私達は、遠い過去の祖先から更に未来の子孫に至るその中間にいます。「命」は、直接に、或いは間接に、伝えて行くもの。その中で何事かに真剣に向き合う時、必ず、「導き」は示されます。自分達の在り方を確かめ、進むべき先を指し示す「導き」を得ようとするところに、「祈り」は生まれます。

 近年いよいよに世の中が大きく変化していく中、人の力では制しきれない自然災害も続発しております。
 被災された方々の御苦労、今後の困難は察するに余りあり、今も尚、阪神淡路大震災からの復興事業の途上半ばにあります高取神社をあづかります私共も、尚更に憂惧致すところです。
 時代の様子は様々ながら、その時期に応じて「明・浄・正・直」の語で表される生活を実現してゆこうとするものが神道であり、八百万神とも称されます神々は、先祖神であったり、土地神、氏神などであったりなされて、その拠り所として崇拝されます。
 神道の思想は、唯我独尊に陥らず、人としてのあるべき姿を包み込んでゆくものです。その当たり前のことを、あらためて確認し、各自がそれぞれに、更に安泰と向上を願う場として「お祭」は斎行されます。
 その「お祭」の姿は、自分達の姿であり、それが地域のお祭ならば、地域の姿でありましょう。時代の様子は変化してゆきます。しかし、人が人としてあるべき姿があるということに変わりはありません。
 人は万能ではないからこそ何かを願います。願いが祈りとなり、祈りが研ぎ澄まされた時、そこに新しい力が生まれます。それを神の御加護と呼び、「お祭」は、それを求める行事でもあります。
 私達は、心を併せて、力及ばぬ自分に力を与えながら進んで行きたいと思います。 
 この世界のすべての事は、私たちの生命の連続に繋がります。私たちにとっては、その生命の連続があることで、知られる全ての事柄に接することができるようになるのだと言えるでしょう。
 私たちは、その生命があってこそ、世界の中に在る事ができ、自分に対して開かれた世界を知る事ができるのだという事は、当然だと言えば、余りにも当然だと思われるかも知れません。その自分の生命の過去への繋がりを、自分を中心とする生活の実感から、「祖先」・「先祖」と呼び、未来に続くものを「子孫」と呼びます。
 これは、血縁に関わらず、広い意味での呼称として考えるのですが、その二者の中間に、「自分」というものを位置づけ、自分を過去と未来とを繋ぐものとすることが、神道の基本的な立場です。
 余りにも当然なことで、全く在るがままの事ですが、その当然であって、普段は取り立てて意識されないようなことの中にこそ真理はあるのです。真理というものは、難しい言葉でなければ表現できないものではなく、ましてや、難解な言葉の中にあるものではありません。
 私たちの生命は、生活という枠の中で、様々な様子を見せます。それは、私たちが、そのそれぞれの場面で、どのようにすることがよりよいのかを考えているからでしょうし、たとえ考えていなくても、或いは、現実に生きていこうとしていてもいなくても、自分の周囲への何らかの応対はあるものでしょう。
自分というものは、それが他と区別されるものとして在ることになるその時から、他のものとの関わりを避けることはできず、この世界の生命の連続ということも一つの関係だということになります。
 生命の連続を過去と未来という時間感覚で捉えるならば、そこにいる自分は、先祖に繋がっている自分であり、その生命の根拠を祖先に持ちながら、子孫に繋がってゆく自分です。日本では、先祖をお祭り申し上げ、「祖霊」・「祖神」として崇めてきました。なぜ崇めるのか。今、ここに自分がいるということは、祖先があってのことであり、今の自分の価値をつくり出す根元は、その祖先にもあるからです。
 祖先を大切にすることは、今の自分を大切にしようとすることであり、更に子孫を大切に思うことは、また、今の自分の生命からの生命の繋がりを大切にしようとすることによります。
 遠い祖先はまた、その現世の目前の事柄から離れたものと感覚されるところから、人知が及ばないと感じられる様々な事柄と関わって、更に大きな霊威を持つ神として崇められるようにもなります。
 ここに、日本の神々の大きな根拠があります。今では「唯一神」を崇める一神教の唯一者のことも、日本語で「神」と呼んでいますが、これは、その意味からして誤訳でした。隔絶した唯一者には他に相応しい名があることでしょう。日本の神々は、それが皇祖とされる天照大神であっても、むしろ皇祖であるが故に、私たちには近しいのです。何故ならば、それは私たちの先祖に繋がっているからです。
 ただ、神々は、そして祖先は、崇められるものとして考えられます。それは、今の自分を大切に思い、更によいものにしていこうと思う時、その根拠になるところのものは、より確かであり、また、自分を力強く導くものであるべきだからです。
 自分の根拠は祖先にあり、更に祖神、氏神にあり、それを意識するとしないとに関わらず、我々は、その許にあって生きているのです。できるならば立派なお祭りをお仕え申し上げようとするそのわけは、現にこの今、ここにいる自分を、祖先と共に、より優れたものにして行こうとする気持ちがあるからということでしょう。
 祖先は、子孫によって立派に祀られることで、その霊威を一層高め、その子孫は、霊威の高い祖先に繋がるものとして、益益優れたものとして在り得ることになります。ならば、お祭り事を疎かにすることは、今の自分自身を粗末にしているということになりましょう。
 自分を粗末にするとは、自分を意味あるもの、価値あるものとして扱わず、その存在の理由や意味を、自分から認めないということです。
自分を大切にするということは、その拠って立つところを大切にするということでもあります。その拠って立つ所とは、祖先とこの世界ですが、この世界とは、そこにある一切のものと関係の全体についての名です。普段、特に気に懸けていることは、自分の周囲の人間関係かも知れません。自分が自分であると思い始めた時に、そこで既に、その自分は「関係」の中に位置しています。
 その関係の中で、「自分」というものは、或る働きを行うことによって、その位置を占めます。その位置は、或る働きによるものであり、その働きの連続と変化とによって、位置も或る経過を辿るでしょう。しかし、その位置は、全く「関係」の中での事柄であり、常に自分以外のものとの関わりがあるわけですから、無制限な自分というものは現実的ではありません。
 そのような自分は「本当の自分」ではないと言う人もいることでしょう。私達の先人は、「人」とは何かと考え、「自分」とは何かと考えてきました。そこには様々な表現が生まれましたが、現実に生きている場面で、そこに在る自分は、紛れもない、その時の自分であり、この上もなく現実性を持った自分です。それがどういうものであっても、その時には、それであり、それでしかない。そうであることを、これからどの様にしてゆくのか、してゆかないのか。それを考えるのも決めるのも「関係」の中にある「自分」です。
 そして、その「自分」とは、祖先と子孫との中間にあり、中継する位置に在るものです。その自分というものが、本来のところでよりよくなろうとすることは、生きるものとしての自然でしょう。かつて世間を賑わした「堕落」ということであっても、底からの展望の可能性という前提がなければ、人にとって、何の意味もないものです。人は、或いは生き物は、生きることに於いて、可能性を追い求めます。その可能性は、また、生きることの中にあり、その生きるということは、祖先から引き継ぎ、子孫に伝えて行く全ての事柄の基本です。
 人の置かれる位置、立場は様々です。或いは、場合によっては、現実に生きることを途中で止めてしまおうとすることもあるでしょう。それは、自らよりよく生きようとしているにもかかわらず、自分の意志によらない困難に対面し、それによって自分の在り方が脅かされて逃れようもなく思われる時、自分の在り方を自分の意識の中に固定して守ろうとしているのであって、生きようとしていることには違いないのです。ただ、その生きようとする意志が、現実の世界の通念的な様式に適合していないところから、全く異質なものとして感じられるのです。
 事情はともあれ、現実的な現象としての生命の活動が途絶えたならば、一般には、それを肉眼に見える世界からの一つの消失とします。さて、或る「人」の消失が起こったとして、そのこと自体は、生物として当然起こるべきことが、そこでも起こったということでしかありませんが、それは「関係」の中で、どのように捉えられるのか、その意味するところは何であるのかと問うならば、過去に対しては、その自分の生活を或る時点で止め、自ら過去の内容となったということであり、未来に対しては、その未来の有様についての理由説明の要素となり得る事柄の幾つかになったのだと言えるでしょう。
 つまりは、自分というものは、或る結果であり、更に或る起因であるといえます。そうであればこそ、「自分」は中間の経過点で働くものであるのです。「過去」といわれることは、現在から見た過ぎ去った時と経験であり、それが自分自身の直接の経験によることであろうとなかろうと、或る現在から解釈されます。そして、その解釈は未来に投影されます。
 この現在にいる自分から見て、それがどのように解釈されるのかは、その「現在」がいつであり、どのようであるのかということによって変わってきます。過去に有った事柄は、更に過去に有った事柄と未来とに関係し、過去への解釈と未来の事柄に繋がります。「自分」とは、今、そこに在って、絶えず繋ぐものであるのです。
                  平成23・02・15