祖霊祭


祖霊祭(先祖祭り)のあり方や仕方については高取神社にご相談下さい。

御先祖をお祀りすること とは
 どちらのどなたにでも「御先祖様」はいらっしゃいますが、さて、何代前までお分かりで、何人の御名前が分かっていらっしゃるでしょうか。子には両親がいて、その両親には夫々の両親がいて、それがどんどんと遡る。最小限でもそのような具合。先祖など分からないから知らないし関係ない、という方もありますが、その方も、「御先祖」から切り離されることはありません。「自分」は御先祖からの繋がりの一部で、御先祖は「自分」の中に既にあります。
 さて、その「御先祖様」。順番からして、一番近いところが自分の「親」ということになりますが、残念ながら皆様必ず亡くなります。その後、遺った人達はどうするか。殆どの場合、「お弔い」をし、更に、折々のおまつり・供養をなさることでしょうけれども、それは、何故でしょうか。
 「先祖を大切にするから」でしょうか。では、何故、先祖を大切にするのでしょうか。自分の中に先祖が含まれ、先祖からの繋がりの端の方に自分がいるからではないでしょうか。先祖を大切にするということは、結局は、自分を粗末にしないということになります。
 ところで、その「先祖のおまつり」はどのようになさいますか。先づは、先に逝かれた方々の魂・おみたま が安らかであることを祈ることが多いでしょう。いきなり、いろいろとお願い事をする方もありますが、親しき中にも礼儀あり、で、やはり、ものごとには順序があります。さて、では、何故、御先祖が安らかでいらっしゃるように祈るのでしょうか。
 「祈る」ということは、何かがそうあって欲しいと心を込めて、自分以外の尊い何ものかに対して願う行為ですが、何故、そうするのか。自分は先祖に繋がっているところから、先祖が安らかであれば、今の自分に安心が繋がると感じるからなのですが、このことを深く自覚している人は多くはないでしょう。この場合、自覚の有無は重要ではなく、意識の底のわかったようなわからないような所で、実際に行った何事かが影響をもつということが大切です。そして、その行為によって、自分の位置を定めていけるのですが、そうであればこそ、その行為や繋がりがなければ、自分は不安定になるということになります。
 人にとって、自分達が日々に安心して生活を続け、よりよくなってゆくことは最重要なことでしょう。日々に続く物事には更に様々な物事との関係があり、様々な人々との関係が生まれ、それらの安定があってこそ、自分も安心できます。その中で、過去から現在に至る様々な関係を象徴するものとして、「御先祖様」が知られるともいえます。その「御先祖様」をどのようにおまつり申し上げるか。
 「お祈り」は様々です。なんといっても、お祀りされた遠い御先祖は「先祖神」であり、神様として、子孫をお導きになられるということが、神社神道の信仰なのですから。では、「おまつり」の場所はどこでしょう。子孫のお家ですか。お墓ですか。どちらでも祭祀はされますが、どちらが重要かといえば、それは、お家です。ただ、それが不都合な場合は、お墓でということもあります。
お家では、「みたま舎」で「おみたま」をお祀りして、お鎮め申し上げます。お墓は、亡骸が自然界に還る場所を示すものであり、その家系と大きな生命の循環を繋ぐ場所として大切です。その清々しい姿での存在が、家系に繋がる人々に安心を与えるものでもあります。
 ところが、最近では、その維持がしにくくなるお家が少し増えてきているようです。そこで、「墓じまい」ということが言われます。風潮に便乗しての墓じまいは許されることではないでしょうが、どうしても止むを得ない場合、どうすればよいか。
 現在お世話になっている墓園が、管理費用を一括納入として永代管理する所ならば、余り問題はありません。先々のおまつりだけ、祭祀者に依頼しておけば大丈夫です。ただし、空調設備の整った屋内の団地のような所は、永代そのままということを考えると、自然の循環というところでは、いかがなものかとは思います。
 お墓の墓石などの永代管理ができない場合は、仕方がありませんから、お墓の設備は撤去するとして、亡骸や亡骸が混ざった土をどうするか。新たに適切なところにお遷しすることが無理ならば、自然に還す方法を選びましょう。様々な形があります。もう次に家系を継ぐ方がいらっしゃらない場合、許される範囲での山野や海洋河川への「散骨」も一つのあり方で、そのお世話をする事業者も各地にあります。
 大切なことは、「おみたま」をお祀り申し上げることです。仏教ならば位牌、神社神道ならば霊璽を通して、おまつりできる所で、できる限りお祀り申し上げます。個個のおみたまには、「弔い上げ」として年限を限り、その後は「御先祖」として纏まって頂くこともあります。できる限り、直系でなくても子孫のお家でお祀りし、いよいよ無理で、もうお参りできる方がいらっしゃらないとなった時には、それまでお世話になっていた祭祀者に位牌や霊璽をお預けして、先々の祭祀を依頼することも止むを得ないでしょう。
 家系というものは、たとえ直系が途絶えたとしても、何かしらの繋がりで、営々と次代に続きます。自分に直接の子がいないとしても、家系の繋がりが全く途絶えることは希少なことです。子孫は繋がり、御先祖達はどこまで広がるか、正に広大です。その中の一つの中継点、繋ぐはたらきを与えられたものとしての「自分」。それを位置づけるものが、また、先祖であり、子孫である。そのような自分を確かめることともなる「先祖まつり」・「祖先祭祀」は、形は様々ではありますが、人が人としてあるために欠くことのできないことでしょう。
 「おまつり」は、その「かたち」が立派であることも結構ですが、それ以上に、何にもまして大切なことは、「おみたま」を正しくお鎮めしていけるかどうかということです。過去の御先祖様方との御縁は絶ちようのないものであり、消すことはできません。だからこそ、「無縁」になられた方々に対しても、祭祀者などによって、それなりの供養やまつりごとが行われているのです。
 自分逹の代の後は「先祖まつり」が出来なくなる、ということであっても、自分達もやがて「御先祖」になり、どこかで必ず、後世に繋がってゆくものなのですから、消えることのない「御先祖」を祀り続けることは、人や人の在り方を大切にするという意味合いからも随分と大切なことだと言えるでしょう。